1、日本オチコボレ還暦論(0906)

〇アメリカは「セールスマンの死」時代の再来

このところ、国がまるごと落ちこぼれてしまい、国民みんなが大災難に遭うという時代のことが気になっている。日本という国は、この120年の間に、二度落ちこぼれた。それは明治維新と昭和の敗戦である。そして今が三度目のような気がする。

最近、アメリカのことも少し気になって、「セールスマンの死」のビデオ版を、ネットで探して買った。これはアーサー・ミラーの戯曲で、1949年2月にニューヨークで初演されている。私の見たのは1985年に映画化されたもののホームビデオ版で、ダスティン・ホフマンが、自動車のセールスマンの主役をやって好演している。この映画を見ていると、アメリカも60年前には落ちこぼれていたことが分かる。

1949年には朝鮮戦争も始まっていない。基礎体力の違いが巨大ではあったが、日本もアメリカも戦後復興にもがいている状況であった。アーサー・ミラーは、自動車セールスマンという花形職業の、かつて敏腕でならした63歳の男を通して“仕事、家族、親子”を書いた。あらすじをいうと、〈セールスの旅回りをしても、なかなかクルマが売れない。体がきついので、かつてともに働いてきた社長の息子(今の経営者)に、内勤に回してくれるように頼んだが、逆にクビを言い渡される。いい年になった息子二人は、親にタテつくばかりで仕事をしないし、自立できない。自宅のローンも払えない。彼は深夜の町にクルマを駆って走り出た。最後に彼の尊厳を支えたものは、生命保険で住宅ローンを払いおえることであった。エピローグの墓の前で彼の妻は「よりによってこんなときに、35年間で初めてなんですよ、どうやら借りも払いもなくなったのは」と住宅ローンが終わったことをつぶやく。友人は「ウイリーはセールスマンだった。セールスマンには、基盤というモノがないのだ」と続けた〉。

この芝居を、日本で劇団民芸が上演したのは、1950年代の初め頃だったと思う。大分あとで大阪で見たようにも思うが、はっきりは覚えてはいない。ひょっとして、雑誌新日本文学ぐらいで知っていたのかもしれない。ちょっと気になるのは、自分では映画も見た記憶がない。気になってVHSビデオのカバーを丹念に見ていたら「これだけの映画でありながら、日本劇場未公開であった」とある。ダスティン・ホフマンのセールスマンの評判は、聞いたことがあるような気がする。どこか特別な劇場で公開されていたのかな?(本で見たい人はハヤカワ演劇文庫で、戯曲が2006年に出版されている)

 

〇アメリカの金融危機も、国ごと、丸ままの落ちこぼれだ

〇この120年の日本のオチコボレ大暴走

私は日本の近代史の節目を、こう考えている。

・1860年代に、幕藩体制というシステムが壊れ始める。

・1984年。これまでに内戦が収まり、伊藤博文内閣総理大臣。

・1885年。日本銀行兌換券が出され、新しいシステムに切り替わり、社会が上昇に転じる。

・1905年。日露戦争。ここからの20年が明治のピークだった。

・1918年。第一次大戦でシベリア出兵。

・1925年。普通選挙法、治安維持法。この後官僚的固定思考陸軍政府になり、崩壊へ向かう。

・1927年。金融恐慌。

・1945年。日露戦争モデルを官僚的思考で肥大化した、固定モデル型の軍国日本が崩壊。

・1946年。新円切り替え。日本国憲法。インフレを抑えて新しいシステムでスタートした。

・1985年。プラザ合意。この後3年ぐらいで240円/ドル→120円/ドルへ。

この後、陸軍・大蔵省的直線思考でバブル崩壊へ向かうが、ツケを一般預金者からパクリ(福井日銀副総裁によるとその額は300兆円強)と、さらに孫・子の世代に数百兆円のツケを回してごまかした

・2005年。本来なら1945年から60年後のこの年頃から、日本は再出発すべきところであった。ところが、我々の世代は、いまだに“陸軍・大蔵省的・全国一律主義”にしがみつき、孫・子のスネをかじり、見せかけの贅沢に酔っている。

なんとか、早くモノの大量消費を幸福だと思う勘違いから脱し、日本の伝統的文化を楽しむような、“しあわせ感”をベースとする国造りに向かわねばならん。

60年ごとの還暦だというのは、「ちょっと、こじつけじゃないの」と思われるかもしれないので、少し説明を加える。江戸時代の地方自治型の幕藩体制では、西欧列強の帝国主義的侵略の脅威に対して、国を挙げて対応する合意形成のために凡そ20年かかった。それが1885年である。60年周期のうち40年の1925年頃までは上昇するが、ワンパターンで進んで崩壊に至る(1945年)。

40年後(1985~90)にはバブルで行き詰まるが、目先だけの知恵で解決を先延ばしにし、次の世代のための戦いを回避して、逆にスネを囓って生き血を吸うドラキュラのような存在だ。我々は、実に情けない世代だ。

 

〇全員オチコボレ時代を体験し、次の時代をどう作るか

1946年の三学期頃だったか、新円切り替えの新札が間に合わないので、郵便切手より小さいぐらいの証紙を貼る作業を、親父に言われてやったことを覚えている。この頃はみんな腹が減っていた。昨今いわれている「派遣切り」などというようなのんびりした、豊かな気分の人間は一人もいなかった。どんな仕事でもした。少しでも工夫をして、仕事を認められようとした。

私の60年説では、1885年に明治維新による全員オチコボレ国から脱し、豊かな日本に向かうが、1930年頃から行き詰まり、全員体制に縛られたレギュラーでありながら、日本が全体としてオチコボレになり、命を投げ出すような人生を強いられ、日本は国ごと崩壊した。

その1945年から新しい日本国憲法のもと、ひもじい中で努力をして上昇に向かい、繁栄を築いたが、バブルで崩壊した。この敗戦からバブルまでの4~50年間の問題は、日本経済の商品市場、労働力市場の急拡大の中で、次の時代の“日本型幸福感”を見出し得なかったことである。

明治維新は、我々極東に浮かぶ島の仲間(日本人・民族)にとって、生き残りのための不可欠の近代化革命だった。しかし、私も小学三年生として生きた昭和の敗戦は、官僚(陸軍、海軍)型直線思考の狂気戦争であった。これは、福沢諭吉のいう“異端・妄説”を内包できない、単なる秀才による舵取りがもたらした“悲惨”だったような気がする。

ところが、次の1945年から始まった還暦(60年)がもっとよくない。少なくとも、1936年に二・二六事件を起こした青年将校たちは、一応の理念もしくはモチベーションは持っていた(農村出身の青年将校は、それを救おうとするモチベーションを持っていた)。しかし、プラザ合意・1985年頃から始まったバブル経済は、後に「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」を引き起こしたように、単なる堕落と暴走であった。

私もその頃は、テクノポリスやリゾート計画に関わっており、たびたび困難に遭遇した。一番困ったのは、県庁などの課長さんぐらいから「よそは云々という計画を入れるらしい。なぜ同じものを描き込まないのだ」と、怒られたことである。エリート大学を卒業していない私に対して、居丈高に迫ってこられて困った。今でもそのときの状況が浮かんでくる。テクノポリスにしてもリゾートにしても、日本中に同じものを作るという競争であったし、現在に至ってもそのような傾向は変わっていない。

大量生産・大量消費型のライフスタイルが続き、画一型生産を続ければ、当然のこととして画一型の国内労働力市場は縮小される。中国での生産に切り替えたユニクロが示したように、1985年ごろ以降は国内での失業が増加していくことになる。1990年頃からオチコボレが増加し始め、2005年頃には日本人全員オチコボレという状況に向かっていた。それを誤魔化しえたのは、一般預金者からの金利詐取と、若者たちへの借金ツケ回しである。

 

〇ソフト化・サービス化論はどうなったのかな

パラダイム転換と言う言葉が一世を風靡したのは、1970年代後半のことだったように思う。それに前後して「還元主義を超えて」だとか「ホリスティック・パス」等ということもいわれ、次の時代に対応する枠組みとして「ソフト化・サービス化」の時代になったともいわれていた。産業構造は変わるのだ、モノ作りだけでは日本は生きていけないのだ、と言われ続けていたように思う。

私は商売柄、大平内閣以来続けられていた(途中ストップしていたが、中曽根総理が受け継いだということらしい)ソフトノミックス・シリーズに興味を持って、ほとんど読んでいた。この議論がなされていたのは、1985年頃までのバブル突入前夜までだった。なぜこれが生かされなかったのか不思議に思う。手元にあるシリーズを開いて、「近代化とは、何だったのだろうか。それは人類に何をもたらし、近代化を達成した先進諸国において、人々はこれからどういう途を選択しようとしているのだろうか」(大蔵省審議官長富祐一郎)という文章で始まる序文を見ながら考えた。

気になって、ネットを検索してみたら、「長富祐一郎氏(元大平首相首席補佐官)に聞く、大平政策研究会の意義」(H12.2、聞き手阿部穆)という文章が出てきた。