4 私のオチコボレ人生のスタート

“オチコボレでやっていくぞ”という居直りの節目

・すべて、偶然に道が開けていく

・1962~65頃 倒産会社の再建に関わる。行くところのない人間だけ残って、かな

りのスピードで再建でき、以前より楽しい職場になった。結局人間

は「ダメ人間と見られていても、その気になったら3~4倍の働きを

することなど簡単だ」という体験。

・1968    アルパックでマネージャーになって、失業保険に入って文句を言わ

れた。この社会は「レギュラーコースを守って来ている人間は

失業しないのだ」という社会通念があり、それはかなり有効らしい

ということ。

・1972頃   親鸞の歎異抄に再度出会う。「自余の行をはげみて佛になるべかり

ける身が……いづれの行もをよびがたき身なれば、とても地獄は一

定すみかぞかし。」私レベルの人間がエリートらしいプランでなくと

も、地域の人の納得が得られる方向を見つけたらいい。特別すごい

プランができるはずもない。京都駅近辺を歩きながら、再開発のプ

ランと実現性を考えていた時。

・1973~4頃 「立場別問題別対応表」をプランナーが判断して書き込むべきもの。

地権者、住民に聞いてそれを書き込むのではない、という吹っ切り

方も歎異抄から来ている。

「みんなにアンケートしたらこうだった。だからこうすればよいは、

偽善である。多数の気持ちを反映するためにはプランナーが、多く

の人の立場に立って、その人たちの気持ちを汲んで、プランに反映

することが唯一の方法だ。

この時点でかなり自信がわいてきた。

結果、“60~70点合意法”に繋がる。だれひとり100点の人がいて

はならない、という考え方。この時点でかなり自信がわいてきた。

この内容は「不動産資料」という雑誌に書いた。それに少し手を入

れて「再開発研究」コーディ協、に載せた。後に技術士試験に通っ

た(1989)のも、この論文。

・1975頃   オイルショック後、アルパックは債務超過状態で、経営危機だった。

みんな「節約指向」だったが、それでは先が見えないので、「外向き

指向」「ネットワーク経営」を目指して、誰でも営業活動に行きやす

いツールを造るため、みんなの書くニュースレターを出す。

・1984    九州の子会社の赤字を被り個人補償を入れる。本社で議論すると批

判ばかりで結論が出ず、本社も倒産しかねないと思った。倒産して

行くところがないのが私だから。

オチコボレ経営者がすすめた超弱気経営。オチコボレが経営する場

合の経営は、自分に自信がないので、あるいは、自分が出来ないこ

とや、自分がしんどいと思うようなことは、従業員に“やれ”とい

えないので「営業活動をすることが、楽なようにするには、どうし

たらいいか」を考えた。

ここでの営業ツールは、「よかネット」という機関誌と「よかネット

パーティー。