10、オチコボレ自分史 話の展開

オチコボレ自分史 話の展開               110503

 

<いいたいこと> 孫が、うまく行かないと思った時に、一寸思い出して読んでみて、「おじいちゃんもオチコボレだったんだ。それでもマアマア仕事が出来たらしい」と、安心するネタになること。すべて実体験と自分で考えたことのみで綴る。

 


1、おじいちゃんから孫へ、「就職試験」を受けるオチコボレ流の態度(オチコボレ流ブログ20100918就職試験の受験法を孫に告げる)

2、オチコボレでも国家試験に受かる法(よかネット94号12ページ)

3、オチコボレにはチャンスが多い――私の出会ったチャンス

①新しい仕事は、オチコボレ向き(32-3才頃)

――新しい開発の理屈(理論とも云う)を考えねばならなくなったとき

とにかく見本のない仕事は我流で考えるしかない。そんな理論らしい仕事が、パクられてドクター論文になっていた。

②工務店にいたとき、型枠大工に褒められた(29才頃)

――トラブル処理に困ったとき、無知なオチコボレは、自己流で一から考える

設計図を見る能力もなく、現場監督をやっていたら、どう考えても施工不能な図面に当たった。ところが自分には見分ける力がなかったので、事故を起こした。そこで居直って、大工に協力を求めて、自分で納得する方法を考え出し、やり遂げた。一節ついたとき、「監督さんは素人ということは気づいたけど、この会社では、ほかの監督ではとても処理できんと思っていた」と褒めてくれた。

③倒産から立ち上がるのは、みんなの「飯を食う心」の一致(27才頃)

――その気になれば、仕事力は4~5倍になる

倒産したとき全員を集めて会社系の現状を丁寧に説明した。「食っていくためには今まで以上の能率と、品質アップが必要だ」と話した。その後は、手が空いたら人の仕事を助ける、声を掛け合う、などをするようになり、仕事力は4~5倍になった。

リスクは、みんなが避けたがるが、オチコボレはリスクに強い(32-5才頃)

――レギュラーは、事例やモデルのない仕事はさける

未経験な上、大型の複雑で失敗が許されない仕事が来たとき、専門だと思っているメンバーが、全員尻込みをしたので、”アマ”だとされている私の担当になってしまった。しかし、倒産-再建という経験を持っていたので、いろいろ協力を呼び込めばやれると思った。この仕事で業界トップの仕事師たちと仲間になり、社内でも安定した居場所が出来た。

⑤会社のマネジメントの原点は、みんなが会社自体の「おのれ」を知ること(38才頃)

――原価管理をして「己」を知り、待遇は出来るだけ平等に

マネージャーはコーディネータでもある。調整して合意を作らねば、会社は前に行かない。その為には自分の立っている場・状況を正確に(大まかでいい)認識させねばならない。その為に仕事ごとの原価管理を3~4年かけてやれるようにした(一つの仕事が2~3年かかるので)。全員大反対だったが、始まると自分の成果に売り込みに使う奴が出てきた。しかし私が、個人的な評価に一切ふれなかったので、何となく全員が受け入れて、赤字克服の方向へ向かった。

⑥男は黙ってリスクをかぶる(47-8才頃)

――誰も評価をしないかも知れんが、その時は一人で、ジッとかみ締める

極めて理不尽なリスクでも、誰かが被って進めねばならないときは、オチコボレでも被らねばならない。結果なんとかなると、評価が一挙に上がる。

⑦誰にでもチャンスは来るから、オチコボレはとにかくチャレンジする(18-20才頃)

――若い頃から、誘われた仕事はほとんど受けて、一生懸命やった

18~20才頃、先の人生が全く分からなくなっていた。その頃、土方、山から材木を出す仕事、出稼ぎ労務者に行く仕事などの誘いを受けた。全部やったので、体格が変わり、肉体労働で食えるという自信が出来た。そのことが後々の都市計画屋の商売に生きていると思う。

⑧とにかく60点でもやり遂げろ。絶対にシンドイような顔をするな(33-36才頃)

――逃げずにやり遂げると、次はもう少しむずかしい仕事が来る

また次は、一段上の役回りが来る。自分ではいっぱい一杯でやっていても、人はゆとりがあるように見る。つらいが逃げずにやるしかない。人生はこの連続。一回逃げると運は来なくなる。会社が赤字になってもみんなが「○○が悪い」と言い合っていたとき、とにかく防波堤になろうとした。内部では評判が最低だったが、同業他社の経営者がよく見ていたことが、後から分かった。これは経営者としての貯金になった。

⑨人々に意見を聞くのは、それに同意するのではなく、活用するため(35才頃)

――地域の大勢の人の損得に関わる仕事の原点を見つける

合意形成の柱が分からなくて困っていた時、とにかく現場をうろついて考えた。その時偶然に本屋には行って、「歎異抄」を手に取った。20才の頃にも読んだが、全く感じなかった。ところがその時は引き込まれて読み、以後ずっと持ち歩いている。何をやっても正しいという保障はなく、「自分自身が信じられる」プランを作ればいいと思うようになった。親鸞の「念仏はまことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん惣じてもて存知せざるなり」は、常識を信じ、自分を信じられるまで考えてやれ、と聞こえた。

⑩自分一人では何も出来ない。息をするだけでも、この場所があるのは多くの人たちの積み重ねだと気づいた(20才の頃)

――一切、他人の世話にならずに自分だけで出来ることは、頭の中だけの思い、心の切り替え、クセを直すなどのことだけだ。これまでに無限の人たちの世話になってしまっているのだから、何かをして少しでも返さないと借りだけしか残らない。「借りっぱなしで死ぬわけにはいかないな」という気分が湧いた。

⑪最初のつまずきは、国民学校2年生の時だった“オチコボレ自覚の第一歩”

――おそらく新学期の頃だったのではないか。この時、自分の右目が極端な弱視だということが発見された。家で何度も何度も左目を隠して「これを見て見」とか「この字が読めるか」などといわれて、「大変なことになったな」と思った。「もう、陸軍大将には、なれないのだな」と感じたことを、不思議の憶えている。

 

4、日本の国がオチコボレになった時

自律・自律こそが自分を確立して、気分よく生きる元になる。これからとんでもない負担が被ってくるが、ガックリせずに一歩々々歩いてほしい。

①日本のオチコボレ時代推移の概念図

②近代以前のオチコボレ構造 江戸時代

近代最初のオチコボレ期 明治維新  1867~1885

④最初の興隆期 日清・日露戦争  1885~1905 日露戦争終わる

⑤近代最初の「豊かな日本」を謳歌する 大正時代 1905~1925

第一次世界大戦で日本は好況

日本が国ごとオチコボレへ 太平洋戦争の敗戦で崩壊・焦土 1925~45

⑦焦土から新円切り替えで復活へ 高度成長へ繋がる 1945~65

金融インフラの切り替えで再スタート 1947~70頃 実質10%近い成長

⑧高度成長継続 1990まで実質5%以上成長→バブルで行き詰まり 1965~85

この後は、バブルのツケを財政赤字で誤魔化し、ゼロ成長を維持

⑨財政赤字拡大・今日楽(享楽)主義の継続        1985~2005

オチコボレ誤魔化し詐欺 一層の次世代へのツケ回し

⑩ツケ回し路線の継続・破綻か、全国民の覚悟で再建か   2005~2025

注.本来再調整にはいるべき時期に、バブルの引き延ばしで「享楽主義の継続」をやっている。1885年に日本銀行兌換券が発行されて近代を歩み始めた。その60年後に、日本の円は崩壊し、ハイパーインフレを抑えるためのアメリカ占領下で、「新円切り替え」となった。ところが新円の印刷が間に合わず、小さい切手のような証紙を配り、それをはったものは有効な紙幣とした。1946年2月のことだが、小学三年の私が親父に言われて証紙貼りをした。

1985年からバブル化し、90年には崩壊したのに、それを認めずに、あらゆる愚作で引き延ばした。それが現在まで及んでいる。

仕切り直しのチャンスを逃すと、1945の破局よりダメージが大きくなる。前回は敵とはいえ、アメリカという経済主体があった。隣に中国はあるが、この国は「儒教」という家族エゴ型の思想だからキリスト教思想よりまずい。日本型の「じねん(自然)思想」と上手くかみ合わない。現在の日本より今日楽型だ。