9、オチコボレ経営者がすすめた“超弱気経営” 

オチコボレが経営する場合の会社は、自分に自信がないので楽にやりたいと思う。

あるいは、自分が出来ないことや、自分がしんどいと思うようなことは、従業員に

“やれ”といえないので「営業活動をすることが、楽なようにするには、どうした

らいいか」を考えざるをえなかった。これは1978年ごろからやっていた方法である。

・とにかく、自分で良いと思えることはなんでもやる。

・1975頃、オイルショック後のコンサル不況で、決算が出来ない状況。

・世を挙げて節約主義の時代で、会社の内部も互いに細かいことを言っていた。だが、それでは前途がない。内向きにならず、「外向き経営で行こう」と呼びかけた。

・コンサルは、批評するのは得意だが、営業は苦手。営業活動を嫌な気分でやっていても、相手側にその気分が分かってしまい、嫌がられるので効果はない。「やりやすい営業」とは、行きやすい所に行くことである。今までの仕事先に、様子聞き(ご用聞き)に行くことは何とか出来るが、それでもしんどい。

「いい気分で、ええ格好をしながら出来る営業」はないかと考えてみた。それが、みんなが自分で書いたものを載せた機関誌をつくることであった。

・1983年に「アルパック・ニュースレター」No.0、B5版.を出した。ゼロから始めるである。

・3号で編集パターンが落ち着いた。「近況」、「一知半解」、「まちかど」などを設けて全員が書きやすいようにした。編集の型や“手作り感”は崩れているが、今も一応続いている。

・九州での「よかネット」の話。

・九州支店を作って本社でかなり応援していたが、3年ぐらいで大赤字になり「専務が始末をつけよ」ということになった。もともと私は、関西から九州までの一元管理は難しいので、応援はするにしても、九州は別会社にして自立をめざすべきだと考えていた。

・やむなく、別会社として再スタートしたが、また3年ぐらいで不渡り手形が出ることになり、ほっておいたら本社もおかしくなるという状況で、責任を被ることにした(詳しく書きたくないが、私が個人保証で被ることになったのである。私は、コンサルタント業では物品仕入れなどがなく、人件費がほとんどなので手形を切るという資金繰りの仕方に馴染まないので、手形や小切手を作っていなかった。少し待って頂いて現金振り込みにすればよい)。

・私が社長として再々スタートした時、コネも知り合いもいないので、所員の協力を得て、“人もうけ活動”として、セミナーや、パーティー、さらにパンフレットつくりなどで、営業活動を広げていった。その延長線上で始めたのが「よかネット」という機関誌(1993.1)である。後にこれを社名にした。

・1993「ひとネット・よかネット」は営業の基礎となるネットワークを広げる為のパーティーでの配付資料。

このパーティーは無手勝流で始めた。友人知人に頼んで九州はいうに及ばず、日本中から「うまいもの」を集めた。あちこちの名物を食べながら飲みながら「単にだべり、知り合いになる」という低コンセプトに徹した。気が楽なので大好評。今も続いている。「各地特産品・珍味一覧表」を見せたいぐらいである。

・私の人生は、超弱気の連続であった。「オレについてこい」といえるほどのことが出来るはずもなく、重苦しいような気分にならないように気をつけた。ひとつひとつの仕事ごとに原価管理をしたが、それをネタに文句をいったり、ハッパをかけてりしたことはない。私自身がいわれるのが嫌だから、超弱気で通した。この原点は、27歳の時に倒産を体験して、誰でもその気になれば2~3倍の力を発揮するということを感じていたからである。知的サービス業の場合は「超弱気」こそが、企業の活力源になる。

ほとんど一生、オチコボレとしての自覚を支えに生きてきた私が、この年になって、レール社会の「片隅」に入れて頂けた。それは厚生年金の受給である。

「オチコボレになったかな」と思っている若い人たちにいいたい。「外から見えるウワベの格好よりは、心の内面にプライドを持て」