1、立み屋で焼酎に「色を付けてくれ」と云った

「色をつけてくれ、色を!!」という声がした。カウンターに腰掛け、ゲソ天で冷や酒を勿体なさそうに飲んでいる私の頭の後からである。と同時に手が伸びてきて10円玉2個、ついで五円玉がチャリンとカウンターで音を立てた。

20円の意味は分かる。焼酎一杯の値段である。時は昭和36、7年(1961、2)のこと。しがない編集屋に就職した一年生の、夕方の燃料補給の場は大阪梅田の繊維マーケットの裏にあった。今では、再開発ビルに踏みつぶされてしまっている。

当時の私は、夕方になると毎日悩んでいた。今日は二個25円のニッシンのチキンラーメンの一袋をお湯で戻して食べるか、焼売太楼の30円のラーメンの出前を取るか、3階の事務所から降りていって角の「安兵衛」のカウンターで冷や酒一合とゲソ天で60円使うかが一大事だった。この選択は、日中の取材のでき具合、持ち原稿の進み具合、給料日までの日数、前借りに対する経理のお姉さんの顔色などなど、複雑な関数関係の結果はじき出された。もちろん残業代などというものはないのである。

その私の後ろで声がした。だまって20円置くとグラスに焼酎一杯、ということは無言でもわかる。だが、5円が分からない。カウンター内のアニキがグラスを私の右前のカウンターに置き、焼酎の一升瓶を持って注ぎ始めた。5ミリか1センチ残して注ぐのを止めた。一升瓶を置き後ろを振り返ってトリスの小瓶をとり、残った部分に注いだ。きれいに色がついた。ウィスキーの色がついた。右後ろから手がのびてきてグラスをとった。そのときやっと私は振り返って30代の男の顔を見た。一息に飲んで彼は去った。

少し蛇足を付け加えよう。本当はカラーだけではない香りもついたのである。ウイスキーの臭いもついたのである。ここまで言っても、縄文弥生時代の話は分かりにくいだろうから、もう少し蛇足を続ける。当時の焼酎は臭いがきつくてとても飲めた代物ではなかった。それでも大学卒までは飲んでいたが、ラムチュー(ラムネの臭いでごまかす)やビールチュー(ビールを少し入れる)にしていた。本当はくさいままで飲まないのは気合いが悪いのだが、生で飲んだのは18~9の頃までであった。当時流行りつつあったトリスバーも、安月給の身には結構敷居が高かった。今になってみると、あまりにも旨い焼酎を飲み続けているので、あの猛烈な臭いの焼酎を一度嗅いでみたいような気もする。