2、千年家の“法燈”と、独鈷寺の“独鈷・鏡”(福岡県新宮町)

千年家(横大路家住宅)には、千年以上昔から灯し続けられている“法燈”があるということは聞いていた。そして10年前に一度訪ねているが、それを見せていただいたのは今回が初めてであった。

実は10年前、「横大路家は気むずかしいから」という人がいて、千年家の家の前で立ち止まり、逡巡して様子を見たりしながらあきらめてしまった。そんなわけで独鈷寺だけ訪ねたのであった。独鈷寺には、伝教大師(最澄)が中国留学時に持ち帰った“独鈷”があり、ご住職から古い話を聞きながら、独鈷を手に取らせて見せていただいた。

「聞くと見るのは大違い」ということわざは、極楽のように聞いていても、実際にいってみると地獄のようだったりするという意味だが、今回の場合はその逆であった。誰もいない曲り家に入って、屋根裏を見上げたりしていると、腰の曲がった老婦人が帰ってこられて、経緯を訥々と話された。

「この千年家というのは、伝教大師(最澄)が中国で修行をしておられたとき、法燈をともして励みにしておられたときの火を持って帰ってこられて、それをこの家が毎日経やさんようにして来たんです。今も毎日朝晩燃やして、灰をかぶせて消えんようにしています。それで千年家と言われるようになったんです。」

竈は、確かに暖かく、中にこんもりと灰が盛られていた。

「最澄さんはここの浜に帰ってこられて、布教するための場所を探そうとして、持って帰られた独鈷と鏡を空に投げられたんです。するとそれが光を放ちながら、立花山の方へ飛んでいったんです。そこが今の独鈷寺です。そこに寺を建てる間中、このうちにおられたんです。」

「この家を出発するときに、中国以来の“法理の火”を授けなさったんです。この火を護っていけば家が絶えることはないと、いってくださったんです。この火を絶やさんために家を空けることはできんので大変ですが、44代まで続いて来ていますし、孫も男の子が授かっていますので、ずっと男で46代まで続いているんです。」

これ以外にも建物(曲り家)の話、先祖の話、井戸の話など、盛りだくさんの話を聞かせていただいた。「気むずかしい」どころの話ではなかった。最澄が帰国したのが805年であり、修業中から灯しておられたとすれば、丸々千二百年続いていたことになる。その火の温かみにふれて、ゆったりとした気分になれた。

次は独鈷寺。

小さな寺である。「拝観されたい方はご連絡ください」と書いてあったので、母屋の方でお願いした。老婦人が本堂をあけてくださった。

「実は私は7~8年前に伺って、老住職にいろいろ話を聞かせていただき、独鈷も見せていただいたんですが……、今日は三人で来たので」といったところ、「そうですか、住職は二年前になくなりました。」「いやあ、それは、元気で話好きの方だったように思いますが……」この辺りから急に空気が和んだ。

それから、この立華山明鏡院独鈷寺といって立花山の麓に建てられた話、最澄の話、最盛期には立花山に31院、西山に4院、東山に1院あわせ36院からなる大寺院だったことなどの話を聞かせていただきながら、独鈷と鏡を見せていただいた。

「立華山明鏡院独鈷寺之由来」という寛政八年の文書のコピーもいただいた。そこには「伝教大師……帰朝ありける本州に着岸ありて壇鏡と独鈷を虚空に放て法を弘べき相応の地を試み玉うに其の鏡の光虚空に輝き独鈷とともに飛び去りたりと……」この地の由来が書かれている。

 

千年家と独鈷寺あわせて、一時間半くらいだったが、ゆったりとした楽しい時間であった。

※独鈷:天台宗などの密教で銅または鉄製の両端のとがった短い棒。手に持って、煩悩を打ち砕く意を表す。                           (この原稿は2004年のもの)