5 観光案内標識消滅の法則

「観光案内標識消滅の法則」というものを発見した。観光地に出かけると、目的地の近くまでは親切な案内標識があり、この分ならばすぐに辿り着けると思ったとたんに、道に迷ってしまった経験をお持ちの方がおられると思う。これは、「観光案内標識消滅の法則」にはまった所為である。この法則の成立要因は、「こんな近くまで来たのだから、いくらボンクラでも分かるだろう」という感覚が前提になっているからである。 続きを読む «5 観光案内標識消滅の法則»

3、少子化問題の解決は“おばあさん仮説”で

少子化問題の解決は“おばあさん仮説”で ――奄美大島は、安心して暮らせる子育ての島・長生きの島── 070313

奄美大島にいってきた。合計特殊出生率が、日本一高いといわれている地域の実態を聞くためである。日本の2000程ある市町村の中で、出生率トップ20の中に奄美大島の市町村が7入っている。それだけではない。人口当たり100歳以上の長寿者の数が全国平均の4倍になっている。東京は最も所得が多いにもかかわらず、出生率は最も低い。奄美大島や沖縄は、所得が低いのに出生率は高い。この問題のポイントは所得ではないのだろう。では何なのか、考えてみよう。

<子供は生まれるもの? 授かるもの? 作るもの?>               最近は結婚式に出るのが嫌いである。理由は、スピーチの中で、当人はウケをねらって格好がいいと思っているのかも知れないが、やたらに「子供を作れ、何人作れ」などと、品のないことを言う人が出てくることがあるからである。先頃、大臣が女性を「産む機械」といったとかが問題になっているが、「つくる」という言葉は同じ立場に立っている。

地域によって違うのかも知れないが、私の生まれたところでは「つくる」という言葉を聞いたことはなかった。よその家のことをいうときは「〇〇さんの家で生まれたようだ」といい、自分を主語にするときは「できた」と言っていた。つまり自然現象だという態度であった。 続きを読む «3、少子化問題の解決は“おばあさん仮説”で»

12、ワールドカップ岡田監督とベンチャービジネス 9807

ちょっと自慢をしたいと思っている。「サッカーの日本代表通」という意味で、威張っているつもりである(サッカー通ではない)。

12年前、ワールドサッカーの本戦初出場を予言して、的中させた。1997年のアジア予選で、成績が悪く監督が途中交代することになり、土壇場で変わり、岡田武史監督になった。評論家やマスコミは、岡田監督に「ガッカリ」というような論調になった。そのとき「このチームはかなりやるだろう」と予言した。以下は12年前のよかネットの引用である。

〈ワールド・カップ・サッカーとベンチャービジネス〉

若の花が連続優勝した時のインタビューで「仕事ですから」という言葉を2、3度発したのが非常に印象に残っている。

サッカーのワールドカップの監督もビジネス(仕事・本務)だと思う。その監督が変わって岡田監督になったとき、これは面白いのかもしれんと思った。こんなことを書くと「オマエみたいなもんにサッカーが分るか」という人がいると思う。正にその通りである。

この文章が皆様方の眼にふれる頃には終わっているのかもしれないが、この原稿を書いている今はまだ、日本は一試合もしていない。しかし「かなりやれる」のではないかと、私は思っている。その理由は、前任監督の時はベンチャービジネスではなかったが、岡田監督になってベンチャーになったと思うからだ。

その岡田監督が、古参の有名選手をメンバーからはずした。「これはいよいよいける」と私は感じた。「彼をはずしたのは失礼だ」などという意見もでたが、それは建前ビジネスの世界である。岡田監督は「格落ち」だと云いたいのだろう。少なくとも前任者と比べるとそうだろう。しかし、これはなかなかよい条件である。

岡田監督は、何もむずかしいことを考えずに態度をきめたのかも知れない。しかしベンチャーをやれる程度の人間は、むずかしいことを考えずに行動できるのである。

監督はベンチャーに走った。彼のメンバー達もベンチャーをやるだろう。日本のサッカーは駆け出しであるから、ベンチャーがいい。勝負はともかく、よい試合になるだろう。

ところで今度は今年のサッカーの話。サッカー通でない岡田監督フアンとしては、ベンチャー精神が弱くなっているのではないかと不安になっている。

一寸、福沢諭吉になぞらえて言うと、ベンチャーは正統になれない異端が行うビジネスである。日本サッカーがベンチャーとして、一泡吹かしてくれないかと期待している。

<岡田武史-Wikipedia> 彼の一大転機は1997年10月フランスW杯最終予選にて代表チームがアジア予選で敗退濃厚の窮地に陥り、加茂周監督が更迭された事から始まる。岡田は「その時点でのチームを把握していること」が重視された結果として、まず代理監督として指名される。最初の1試合を乗り切った彼は監督へと昇格を果たしたものの、当初は急場凌ぎとの見方が大勢を占めていた。しかし加茂によって代表から外されていた中山雅史らをチームに再招集するなどのテコ入れも功を奏し、日本代表は息を吹き返す。最終的にイラン代表との第3代表決定戦の末、予選を突破し土壇場から初の本選出場を果たした(ジョホールバルの歓喜)。この歴史的な結果を受け、本選に向けての正式に監督に任命される。