3、少子化問題の解決は“おばあさん仮説”で

少子化問題の解決は“おばあさん仮説”で ――奄美大島は、安心して暮らせる子育ての島・長生きの島── 070313

奄美大島にいってきた。合計特殊出生率が、日本一高いといわれている地域の実態を聞くためである。日本の2000程ある市町村の中で、出生率トップ20の中に奄美大島の市町村が7入っている。それだけではない。人口当たり100歳以上の長寿者の数が全国平均の4倍になっている。東京は最も所得が多いにもかかわらず、出生率は最も低い。奄美大島や沖縄は、所得が低いのに出生率は高い。この問題のポイントは所得ではないのだろう。では何なのか、考えてみよう。

<子供は生まれるもの? 授かるもの? 作るもの?>               最近は結婚式に出るのが嫌いである。理由は、スピーチの中で、当人はウケをねらって格好がいいと思っているのかも知れないが、やたらに「子供を作れ、何人作れ」などと、品のないことを言う人が出てくることがあるからである。先頃、大臣が女性を「産む機械」といったとかが問題になっているが、「つくる」という言葉は同じ立場に立っている。

地域によって違うのかも知れないが、私の生まれたところでは「つくる」という言葉を聞いたことはなかった。よその家のことをいうときは「〇〇さんの家で生まれたようだ」といい、自分を主語にするときは「できた」と言っていた。つまり自然現象だという態度であった。

「つくる」という言葉をよく聞くようになったのは、1975~80年頃からのように思う。社会全体がそうなったのか、世代の違いによるのかは分からないが、そんな感想を持っている。

このごろは年をとって、堪え性がなくなっているので、「作れるというなら上等の子供を作ればいいじゃないか」「このごろは作った子供ばかりのようだが、それにしては問題が多すぎるじゃないか」「作るならジベタリアンなどではなく行儀のよい子を作ってくれ」などと、結婚式のスピーチの間に、怒鳴り返しかねないような気がする。「つくった」ので、それを仕立て上げるために、お稽古事、塾、有名校、有名大学と大わらわで仕上げ作業をする。その結果今の日本は、知的で、自立心が旺盛で、創造性のあふれた国になっているというわけだ。

ところが製造工程の工程管理が悪いのか、製品の仕上げ工程が悪いのか、「一度人を殺してみたかった」などという、低品質の製品ができすぎているように思う。

とにかく、「つくる」などということが出来るはずがない。二人の男女の何億というDNAの、どれとどれを選んで組み合わせるというのか。それが出来るのは神か悪魔に違いない。

<子育ての単位は核家族なのか>

「若い人たちは、子供を二人以上持ちたいと考えている」といって、大臣がもう一度槍玉にあがっていたが、この大臣の言葉の裏には、子育ては二人でする=核家族が基本単位だということが前提として語られている。これは今に始まったことではなく、日本の工業化の中で、都市人口が増大し核家族化が進みだしたときからのことである。そして確かに子供を持って、育ててきたのである。

大臣は二度もマスコミの洗礼を受けたが、日本人一般の考えと違ったことを言った訳ではない。

問題は、子供を産み育てるような年齢層の核家族が減っていることである。核家族とは「夫婦と子供の世帯」ということになっているが、その夫婦の年齢が問題である。90才ぐらいの夫婦に65才ぐらいの子供の世帯も核家族であるし、20代の夫婦だけの世帯も核家族である。「核家族化」は進んでいるが、高齢核家族(世帯主が55才以上)の増加著しく、若い核家族(世帯主が54才未満)は、1980年の50.2%から2000年には40.1%二大幅に減っている。その反面、若い未婚者は増加している。「少子化」が問題になっているが、子供を産み育てる元になる世帯も、減っているのである。

③若い核家族の減少

<若い核家族の減少は1980年ごろから始まっている>

核家族世帯の年次推移おばあさん仮説

                        国勢調査

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここで、子育ての話を家族をベースに進めていることに、異論を持つ方もあるかもしれない。確かに北欧などではシングルマザーによる出生が、かなり多いと言われている。フランスの女性政治家が、未婚の母として3~4人の子供を育てていると報道されていた。しかしこのケースは、籍の上での未婚であって、一つの家族として暮らしていると報道されていた。シングルマザーによる出生率を云々するならば、それが両親が揃っている場合よりよいか、そこそこに同等だということが言えねばならない。

人類は、かなり長期の経験の中で、両親が主体となって子育てをするという文化を獲得してきた。近代社会における結婚という手続きは、子供をもうけて育てるための法律上の手続きだと考えられる。近代以前には神前や仏前で、あるいは近隣や親族の前で、仲人の立会いの下で式が行なわれた。それが法手続の役割を担っていた。現代でもそれに類似の儀式は行なわれているが、実態は新婚の二人のためのショウであったり、親の見栄の場であったりしている。結婚から子育てという目的が消えかかっているのである。

子育てという目的がないならば同棲でよい。そして子育てという目的にかかわること(孫育ても含めて)がなくなったら、結婚という法律行為を続ける意義はなくなると考えてもよい。つまり、子育てという目的で意見が一致しない場合は、法律行為を解消してどちらかが子育ての主体になるほうが子供にとって幸せではないか。

<“おばあさん仮説”はパンダで証明された>

人類が、他の動物には見られないほどの早さで、急増殖出来たのはなぜか、ということについての説明仮説が“おばあさん仮説”である。ほかの動物は横ばいだったり、増減を繰り返したり、減少気味だったり、絶滅しかかったりしているのに、人類は生物学的に見た場合の超短期間に、右肩上がりの急カーブで増えてきている。

他の動物の場合、子育てをするのは雌の役割となっている。そしてある程度子育てが終わらないと、次の妊娠はしない。そして繁殖能力を失った(母親になることがなくなった)雌は死ぬのが一般的である。

ところが人間の女性は、繁殖能力を失った後も長期間生き続ける。一方、男性はかなり高齢でも生殖能力があるとされている。動物の場合、かなり高齢になってもボスとして生殖に関わっている例が多い。長生きしている「おばあさん」は子育てのサポート役として母親の負担を引き受ける。そして負担の減った母親が、つぎの子供をもうける気になり、その繰り返しによって人類が大繁殖をしたといわれている。

この仮説には異論もあって、「話としては面白いが、どうかな」という人も多い。ところが、この仮説の正しさをパンダが証明してしまった。この話は2~3年前に新聞で見たことがあったが、今年になって、仰向けに寝転がってほ乳瓶を手で支えながらミルクを飲むパンダの子供が、テレビニュースで何度も放映された。

念のためにネットで検索してみると、四川省の成都にあるパンダ繁殖センターでは、随分以前からパンダの人工繁殖に取り組んでいたようである。その中で、パンダの母親の子育てを代行してやれば、母親が発情するようになり、さらに繁殖活動に向かうのではないかというアイデアが生まれ、それを実行したものである。実際1頭が10数匹の子供を産み、サラニマゴガ10数匹生まれたという例も現れている。

まさか成都のパンダ繁殖センターが、人間の“おばあさん仮説”を証明しようと考えたとは思えない。人間のパンダ飼育係が、パンダを増やすために、ほ乳瓶からミルクを飲むことを教えた。その結果、自分の子に手がかからなくなったパンダの親は、次の子供を産むことになったということはよく分かる。しかし人間がなりかわった“パンダのおばあさん”は、パンダの自立=野性に返すことには一度も成功していない。

一方、人間の“おばあさん”は、孫に知恵を受け継ぎ、親と子の間や子供間の諍いに対する緩衝の役割さえ果たした。もちろん子供の自立の妨げになったとは思えない。もしなっていたとすれば、人類は、おばあさんの役割が発生した頃から、滅亡に向かっていたはずである。

最近「佐賀のガバイばあちゃん」がベストセラーになっている。これこそ、“おばあさん仮説”の最良の例であろう。

<奄美大島は、安心して暮らせる子育ての島・長生きの島>

奄美大島に行った理由は、中国の「社会科学院・人口と労働研究所」と久留米大学が共同で少子高齢化についての共同研究会をすることになり、それに当たって現地調査を行うためであった。

「なるほど、この土地柄なら子供も生まれやすいし、育てやすいだろう。もちろん長生きする人も多いだろう」という風土を感じさせるのが奄美大島である。市役所で話を聞いた後で、「安くて、おいしい」と教えられた、小料理屋というか、小さな食堂というか、気だてが良くて、おおらかな女将さんの店に行った。島は魚に取り囲まれているわけで、生きのいい魚や野菜、豚肉の料理が多彩に出てきた。女将さんは島唄大会で優勝するような人で、奄美の名人といわれている男性の方も来られて、太鼓や三線(さんしん)も自由に使わしてくれて、狭い店で歌と踊りが行き交う、日本・中国入り交じった賑やかなパーティーになってしまった。気候も、食べ物も、人付き合いも大らかで住みやすい土地柄である。

出生率問題が、やたら細かいコンマ以下の数字の問題になっているが、本当は子育する気になる風土・土地柄の問題ではないかと思った。

最近の厚生労働省が発表した、出生率の地域比較を見て頂きたい。

市区町村別の上位20団体の中に、奄美の町村が7(鹿児島全体で8)、沖縄県・長崎県が友に5、宮崎県が1,東京都の神津島村で互恵20となっている。一方出生率の低い方は東京都が13、京都が3、他は福岡県、大阪府、北海道、広島県がそれぞれ1となっている。出生率の高い地域は、決して所得が高いところではないが、コミュニティーを主体に支え合って生きているような市町村である。出生率の低いところは、所得も多く、利便性も良い大都市である。

奄美大島で感じたことを、少しダブリがあるが書き出してみる。

①コミュニティーがあって、近所づきあいがよい

②食べ物がよい、安い

③自然が豊か、うみ、さと、やま

④安全な環境で、不安が少ない

⑤病院等もあって、交通渋滞もない(旧名瀬市の中心部は人口4万人ぐらいである)

⑥三世代家族も多い

こう並べてみると、出生率の低い大都市の対極にあることばかりである。結局「産み・育て場」があるかないかがポイントだと思った。

<少子化問題は地域問題であり、全国的思考では解決できない>

「少子化」の議論を聴いていると、全てが全国平均であり、細かい数字のことだけである。考えてみて頂きたい。こどもを産み育てるに際して、「私は日本という国で、日本人を育てよう」などといった気分を持ったりするはずがない。人々が意識するのは街や村である。元難民高等弁務官であった緒方貞子さんが「国はなくても、コミュニティーがあれば人々は生きていける」と書いておられたが、子供を産み育てるのも同じことである。

問題解決の糸口は、推計値の細かい計算でも、女性の問題でも、難しい理念の問題でもない。子供を産み育てる場のある「地域づくり」の問題である。

もう一つデータをあげてみる。出生率の基礎となる15才から49才までの女性が何処に多く住んでいるかを示すものである(全国、東京、鹿児島のみとした)。東京は全国から若い人を集めて(当然15才から49才の女性も)、もっとも出生率が低い。所得データを見ても、東京は沖縄や鹿児島の2倍になっている。

所得のゆとりはあっても、東京の女性たちにとって「結婚し、子供を育てる場」としての評価は低く、そのような気持ちが芽生えやすい環境ではない、と見ているのではないか。一方、おばあさん側から見ても、「おばあさん仮説」の役割を発揮できるような条件を持っていない。

今後の都市政策・地域政策に、「子育ての場」のことを入れて頂きたい。“おばあさん・おじいさん役”を、公共団体が、核家族との対応だけでやっていけるのか。今までわれわれは、町内会や集落を軽視しすぎてきた。子供を産む数だけの問題ではなく、“場”の問題を地域政策に入れるべきである。

せめて東京・大阪などの大都市は、全ての小学校で夏休み、冬休み、春休みそれぞれの機会に、その期間の半分ぐらいの日数は、臨海学校、林間学校、スキー学校などで、緑にふれ、土と親しみ、水と親しむような機会を作るべきではないかと思う。学級定員などはもっと多くてもかまわないと思う。これこそが「ゆとり教育」である。おそらくいじめなども発生すると思うが、それはワクチンの役割を果たすリハーサルになるのではないかと思っている。一方の受け入れる田舎などでは、都市との縁組みが出来て、地域振興の役割を果てすものと思う。